Donnerstag, 21. April 2011

泥との戦いが続きました

スコットランドキャラメルと牛乳を飲んで少し休んだ後、泥との戦いが続きました。その間もおばあさんは何かを探しているように始終動き回っていました。その後、彼女がとても敬虔にそこに座っているのを見ました。彼女がなにを見つけたか知るために彼女のところにゆきました。彼女が仏像を手に持ち、こわれてしまった部分を探しているのを見て、目を疑いました。私が彼女がなにを持っているのか知りたがったので、彼女はこれは、貴重な中国の神であることを説明しました。そこからそう離れていないところで私は暗赤色の茶色の箱、言い換えるとその神に付属する祭壇を見つけました。私はクリスチャンなので、彼女の捜し物にもちろん混乱し、失望しました。しかしこれは日本に根付いていて、日本に来てから20年になりますが、いつも同じ障害にぶちあたるのです。80%以上の日本人は、仏教徒あるいは神道信者で、いうなれば自分たちの神をもち、その神を崇拝し、彼の亡くなった家族も家の骨壺に住んでいると考えるのです。
           祭壇の場所                       おばあさんの発見した仏像             仏壇


今やっと私はもう一度、どうしてこの人々が家を離れることができないで、まったく泥に埋まり汚れた家を離れることができないか、がわかりました。いろんなことがあっても、どのような運命とデモーニッシュな強い内部の結びつきがこの日本人たちを自分たちの家に結びつけているのか、ようやく私にもわかってきました。しかし、彼らはどこへゆけばいいでしょう。多くの被災民に十分な土地はありません。

17時頃仕事がおわりました。家の大部分のどろははがされました。床に白い粉末がまかれ、殺菌されました。そしてすべてもう一度数週間かわかし、修復作業が始まります。家々を立て直す建具屋が必要です。近い将来そんな職人が現れるかどうか、婦人にはわかりません。
私たちの男性のヘルパーは今日はすでに去ったので、私たち女性3人は、また話し始め、最後に私は、なにか祈りましょうか、と聞きました。私は今度は涙ながらに沈んだ心でお祈りをしました、というのは今日見たこのような惨めな状況にふさわしい言葉が私自身にもみつからなかったからです。人々を本当に慰めるために、私は二人の婦人と彼女の親戚に聖書の生きた神の保護と慰めを求めました。別れるとき、私たちは涙を流しながら腕をあわせました。彼らだけにしておくことは、つらかったです。彼らは寒い夜、彼らだけで、この荒廃した地域ですごすでしょう。これはなぞです。私なら絶対に逃げるでしょう。だんだん暗くなってきました。ほかのヘルパーさんは自分たちのところに戻らなければなりません。二日目の悲しい日が終わりました。

泥との戦い

午後は近隣の家の津波が運んだ泥を排除することを手伝いました。ヘルパーは家の下の部分に降りて、手で粘土の泥の固まりをプラスチックのバケツに入れていました。私はそれから、このバケツを外に持ってゆきました。いやなにおいが今も鼻に残っています。この労多い仕事を合計5人で残りの午後行いました。しかし私たちは今日少なくても一家族を救いました。とっても少ないですが、でも少しは。
 バケツを外に出しているとき、惨めな光景が目に入りました。家の周りもすべてががらくたとゴミでした。ここに85歳の母が娘と息子と住んでいます。彼女は彼女の救出がどんなにドラマチックなものだったかを説明しました。最初の地震で娘はすぐに10分離れた仕事場から母を救い出すために家にすばやく家にもどってきました。彼女はすでに水がどんどんあがってくるのを見ました、運の悪いことに彼女の家は川と海の間にあったので、両方からの津波の危険がありました。すべてが大変すばやくなされなければなりませんでした。彼女は母をさっとつかみ、出発しました。運良く安全な方向でした。それはあたりまえのことではありません。どこにゆくのが今一番いいでしょう、どこが安全でしょう?津波はどのぐらいの高さになるでしょう?時間がありません、命をかけて走ります。水はすでにくるぶしのところにきていました。とお婆案はまだ震えた声で語りました。それから、彼らは左に曲がり、高台に上りました。これが彼らを津波から守るための正しい反応でした。二人とも、現在さしせまったみじめな大変な状況にあっても、命が守られたことに感謝しています。
私たちの男性のヘルパーは今日はすでに去ったので、私たち女性3人は、また話し始め、最後に私は、なにか祈りましょうか、と聞きました。涙ながらに、私は今度は思い心でお祈りをしました、というのは今日見たこのような惨めな状況にふさわしい言葉が私自身にもみつからなかったからです。人々を本当に慰めるために、私は二人の婦人と彼女の親戚に聖書の生きた神の保護と慰めを求めました。別れるとき、私たちは泣きながら腕をあわせました。彼らだけにしておくことは、つらかったです。彼らは寒い夜、彼らだけで、この荒廃した地域で素超すでしょう。これはなぞです。

今度は、松島へ向かいました

木曜日、7時30分、また倉庫に行って、援助物資を探し、車に積み込みました。人々は、なにを一番求めているのだろう、 また、人々がなにを一番必要としているか、を考えていろんな品物を積みました。
その後、今度は、松島へ向かいました。この町は松島湾にあり、宮城県の観光の中心です。260本の松が植えられた島で、仙台の22km北東にあります。天橋立と宮島と並んで、日本の3大名所で、その海岸と該当する観光の城塞近くの歴史の名所、とインターネットにはのっています。
チームリーダーが知っている高橋さんという方が所有される家のすぐ前を走りました。今日私たちボランテイアは彼の家の掃除を手伝う、ことになっています。1階はぬかるみの中にあります。彼の仕事場も掃除されなければなりません。すべてのものを彼の庭に運びました、本、家具、ランプ、絵、すべてが泥まみれで、つかうことができません。高橋さんは、私に絵、磁気の花瓶、ほかのものをホースで洗って、庭で、乾かしてくれ、と頼みました。私は、彼の気持ちをくんで、彼の言われることに素直に従い、この泥まみれの物品すべてを丁寧に扱う努力をしました。しかし、内心、もし私が彼の立場なら、すべてを堆肥に捨てるだろう、と思いました。たぶん、彼は、この物品に多くの思い出をもち、これらすべてと別れるのがつらいのだろう、と思います。へんなにおいします。今日、天気がよかったので、すべてを外で行うことができて、運がよかったです。彼の庭は、けれども泥だらけの畑のようです。そして、なんども12年前に建て、妻が5年前になくなった彼の家周辺の見晴らしは、私を不幸な気持ちにします。彼は、避難所に耐えきれず、自宅に帰ってくる決心をしました。多くの近所の家はその当時、空で、彼と2−3の人々が、このがれきの山で耐えることを決意しました。そのとき、私は、自問自答していました、人は多くいるが、あたたかく、乾いている体育館と、このみじめな場所にいるのと、どちらが、自分にとってはいいだろう、と。自分にとっては、体育館の方が、いいだろう、と。彼の家の2階は、ここでトイレが使えたのですが、彼の住居が上品にしつらえてあったので、私には、彼が几帳面な人だ、ということがわかりました。だから、彼がここに住みたいという気持ちは不思議ではありません。しかし、私には、泥におおわれた庭、とそれに伴う衛生学上のバクテリアの汚染のある状況はもっと危険だと思います。高橋さんは、私たちが、その後、庭で昼食をすることを望みました。私たちは、もちろん自分たちのおにぎりとサンドウィッチをもってきたり、途中のコンビニでかっていました。高橋さんは、私たちと一緒に食事をしたくありませんでした。彼は2階で食事をしたいと言われました。その後、我々にインスタントコーヒーを彼の貴重な磁気のコーヒー茶碗で(彼のコレクション、と彼は言われました)サービスしてくれました。

Mittwoch, 20. April 2011

続き: 震災地でのボランテイア  5週間



すべてを実体験した後、私は内心少し距離をおき、私が車を駐車した家並みの周りを歩き回りました。家の入り口の前の砂袋に驚き、歩いている途中に突然大水の真ん中になる家を発見しました。なんだろう?人々はもっとひどいことを体験したのだろうか?この水はどこからきたのだろう?そこにたち、考えているとき、家の所有者がやってきて、私に、この地区に住む彼とほかの住民たちがそれから5週間増えてゆく水の問題と戦ったかを説明しました。理由を私はよくりかいできませんでした、たぶん雨、あるいはつまった排水溝など。どちらにせよ、彼の家の一階は水が膝のあたりまであって、彼は今、2階にすんでいます。話しているとき、リュックサックを指し示し、冗談を言った、「私は妻をいつもしょっています。」。 最初なにを言っておられるのか、よく理解できませんでした、すると彼が言いました、「妻は5年前になくなり、差し迫った逃避の際彼にとって一番重要なものは、銀行の口座や身分証明書ではなくて、彼の妻の骨つぼなのです。これからなにが起こるかわからないので、その骨つぼを肌身はなさないことを決心したのです。またこれが、彼に孤独である、ことを克服する力を与えるのです。そうです、日本人は魂の癒しとなくなった人との関係に対する自分たちの考えをもっていて、それは、彼らは死後も、まだ生き続けているというものです。
 このどうしようもない環境で苦悩と窮乏と孤独の中で生きている人々と別れるのは、私には簡単ではありません。

宮城へのボランテイア

4月19日木曜日、私は夜行バスに乗って仙台にゆきました。目的地YMCAについてから、私はすぐに自家用車で激震地、石巻に向かいました。道中、私たちは大きな資材倉庫に通りかかり、我々のバスに水、野菜、インスタントラーメン、米、スープ、そして男性用、女性用、子供用、赤ちゃん用、のあらゆる種類の衣服、子供の本、トイレットペーパー、ハンカチなどの日用品の生活物資、で満たされた木箱をバスいっぱいに積み込み、地震によって大変傷んだガタゴトの道を物資を必要としている日本の人々に届けるために、石巻までゆきました。
今回は避難所に行きません、というのも、そこにいる人々はそのころ、規則的に食糧や日々の生活物資を供給されていたのに対し、自宅で過ごし、買い物ができない人々もたくさんいたからです。それは、その土地の店はつぶれていたからです。
  最初の目的地で、その光景をみて驚愕しました。言葉がみつからないので、写真に語ってもらうことにします。その周りすべてのものが、ゴミとがらくた、津波が押し流し、すべてが汚れてしまいました。戦争の後のような、残忍な光景です。
なんという荒廃、想像を絶します。
最初の目的地に着き、ドアのベルを鳴らすと、すぐに最初の人々が私たちのバスにやってきて、私たちがなにを持ってきたのかを見にきました。彼らはその物資を感謝して受け取りました。けれどもはじめは、悲しげな心配そうな顔でした。私たちが風船とお菓子を子供たちに分けていたら、彼らの顔に笑みが戻ってきました。何人かの人々が品物を家に運ぶのを手伝っていたとき、なんと彼らの家がみすぼらしく、    貧弱になったかに気づきました。彼らは津波を生き延びましたが、それでも家財は傷み、家の周辺は壊れていました。
この日、これらの必需品を彼らが家にもって帰られたのをみて、少し幸せな気分になりました。この最初の日の小さな喜び。
それから、さらに2カ所を回り、同じようなことを繰り返しました。人々は、はじめは控えめに、逡巡し、不安そうながら与えられたものへの喜びました、私はこの言葉を思い出しました、受け取るより、   あたえる方が、至福である。

Sonntag, 17. April 2011

 Happy Easter 2011!
私たちに信じているイエス様は一度死んだ、その後よみがえられて, 現在生きておられる主です。
ハレルヤ。感謝します。
黙示録 1:17 それで私(ヨハネ)は、この方(キリスト)を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、 1:18 生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。
最近皆様から素敵なお手紙やプレゼントを頂、心から感謝いたします。今週は受難週ですが、イエス様の十字架のみ業を覚える、救いの恵をもう一度思い込む感謝を持ってイエス様のみ名を賛美いたしましょう。私は明日一週間(4月19日〜26日)仙台に参り、少しでも手伝いたいです。お祈りありがとうございました。帰ったら又連絡します。主の豊かな祝福が皆様の上にありますように祈っています。